愛と恐れ
原始の意識というものがあります。これは人間の不随意的な機能を司っています。
その一つに自律神経というものがあります。脳から背骨に沿って2つの神経が降りてきています。一つが交感神経、もう一つが副交感神経です。
原始人が危険な事態に出会ったとき、基本的には2つの行動をとります。一つは、「逃げる」、もう一つは、「戦う」。戦うか逃げるか症候群と呼ばれる事もあります。危険だと感知できる状況に出会ったとき、原始人の彼に、自律神経が逃げるか戦うかのどちらかの状態がとれるように持っていきます。
危険だという信号が自律神経を通って、脳から体に伝達されると、心臓が強く鼓動を打って、血液が多く流れ、アドレナリンが分泌され呼吸も浅くなります。危険がなくなるまでその状態は続きます。そうすると副交感神経がもう大丈夫だという信号を伝達し、最終的にはホメオスタシス(恒常性)の状態に戻ります。人間は大部分の時間を恒常性の状態に保っています。
1930年代にカナダ人の医師にハンス・セリエという人がいて、ストレスという概念を発表しました。猫を使い自律神経の働きを調べました。人間がある状態に置かれたとき、交感神経、副交感神経を通して何らかの反応がストレスとして起こる事を発表しました。
副交感神経は、何かが起きた後に人を恒常性の状態に戻すように働くのですが、恒常性に戻すための化学物質は無限ではなく、有限の量しかないのです。 色々な刺激が与え続けられて、副交感神経があまり長い間刺激にさらされ続けると疲労がでてきます。それは、他の臓器にも影響を与え、免疫機能も低下させます。
よく、アドレナリンというキーワードを使います。その時には、実際に出来事が発生しなくてもアドレナリンが分泌するという事があると言うことをご存じですよね。
私達の現在の生活では、交感神経と副交感神経が常に刺激を受け続け、働き続けなくてはならない状態にあります。それは、実際の危険な状況だけではなく、想像上の危険だとか、危険の状態と関連した状況、それらによっても体は反応し続けています。
子供の例をとると、両親がいつも子供に向かって怒ったり、怒鳴ったりしていると、その子供は大きくなって、誰かが大きな声をあげると、自分に危機が発生したと思い、その状態に脅威を感じてしまいます。更に、肉体的にも同じ反応が生じます。
私達現代人は、私達の祖先の原始人が一生かかって味わったようなストレスを、おそらく1日の内に受けているでしょう。東京のラッシュの電車に乗っただけでも相当のストレスを感じます。 一日の間に色々な小さい出来事が起きています。ストレスのおかげで、我々は、早く老化し、病気にもなっていきます。自分コントロールしている神経のシステムは自分でコントロールできないからです。
しかし、自律神経を予めコントロールするための方法があります。ヒプノポテンシャルに於いて自律神経を自動的に反応させてしまい、ネガティブな意味付けを変える事ができます。
肯定的な解釈の土台になるものは、愛です。否定的な解釈の土台になるものは、愛の反対の恐れです。愛の反対は憎しみではありません。恐れがあるから憎むのです。
お腹の中の赤ちゃんは、お母さんが本当に自分を産みたいと思っていると、自分は価値のある人間であると意味付けをします。その土台に愛があります。
お父さんが子供に向かって、おまえは何をやってもダメだというと、すると、子供は自分は価値の無い人間だと思ってしまいます。自分は価値の無い人間であると感じる土台は恐れです。
意志の力について
自分にはこの状況、或いはこの出来事には対処できない、自分にはコントロールできないという経験を誰もが持っています。或いは、誰かの為すがままにならねばならないという状況です。
しかし、それは事実ではなく、そのように解釈してしまったというだけです。本当は、誰も自分以外の人に意志の力を与えてしまう事はできないのです。
妥協するという事も本当はありません。譲歩するというのも本当の意味ではありません。
譲歩したという幻想の中に踏み込んだというだけです。
例えば、ある女性が恋に落ちて、相手の男性が世界中で一番素敵な人だと思ってしまったとします。
そして、その男性に私はあなたの言うとおりにしますと言います。でも、その男の人が最終的につまらない人だと分かったとたんに、その思いは冷めてしまいます。
それは、意志の力をその人にあげて、後からそれを取り戻したのではなく、意志の力を与えてしまったという幻想の中に踏み込んでいただけです。
また、男性がある会社に勤めて、その会社の社長が暴君のようだとします。すると、その男性は、その社長に意志を渡してしまったと感じるかも知れませんが、それは、感じているだけです。
一つに表面意識があり、そして潜在意識があります。
原始の意識は、潜在意識の一部です。
そして、そのほかに二つのレベルの意識があります。
一つは、外的意識(Exstra Conscious)。外側にあるのは複雑な要素ですがこれを「エゴ」と呼びます。
物理学が発展する途上に、ニュートン物理学というものがありました。それは、全ての物質は分離した個体であると言う認識を持つ物理学でした。
ニュートン物理学ができてから20年以上経ってできた量子力学では、分離はどこにも存在しないと言う事が分かりました。
全てのものは常に動き続けています。それぞれ違う波動を持って動いています。
私達は、椅子よりも早い波動で動いています。私達よりも音とか光とかの波動の方がもっと早いのです。しかし、椅子もエネルギーでできています。
人は、自分は自分であって、自分は椅子ではないと確信していますが、この理論では椅子と自分はつながっています。他の人と人とがつながっているのと同じようにつながっています。
五感は、表面意識にありますが、五感では、このつながっていると言う事を認識する事はできないのです。外側にあるエゴという外的意識の中で、つながりを認識できます。意識の中でも見えない漠然としたものです。
エゴをオーラという形でみる人もいます。しかし、オーラにもたくさんの層があり、エゴはその中の一つの層に過ぎません。感情帯というものに相当します。
このエゴの部分が私達全てを結び付けている網のようなものであり、この部分で我々はつながっています。エゴが私達を全ての人、全てのものとつなげています。地球上にあるものだけでなく、他の惑星、他の世界ともつながっています。
私達は多次元的存在ですから、他の次元ともつながっています。
エゴは、集合無意識、宇宙意識と自分をつなげているものでもあります。エゴがないと我々は孤独で分離した存在になってしまいます。
私達のコミュニケーションの93%が言葉以外のものであると言われています。私達は言葉を越えたたくさんのやり方でコミュニケーションをとっています。外からくる情報はエゴという外的意識を通って入ってきます。
エゴは内面の意識と同じ様な性質は持っていません。エゴには、意志の力もなく、論理もなく、プログラミングもありません。
エゴが持っている力は、吸収と反射だけです。
外側からやってくるものを吸収し、それを自分の内面に向かって反射するだけです。
天気予報を例にとると、気象衛星が大気から色々な情報を取り入れて、地上基地に送ります。そして、今現在送られてきた情報と、今までに蓄積した情報を分析して予報を出します。
エゴは、外側からのたくさんの情報を常に受け入れ吸収し反射し続けています。その情報を受け取った我々は、意志の力、論理の力、理性の力、知性の力を使って何らかの決定を下します。
エゴと言うのは、私達と外的世界との接点です。
精神世界的な言い方をすると、エゴは第六感に相当します。
例えば、誰かの事を思っていると、いきなりその人から電話がかかってきたりとか、突然玄関に現れたりします。
それはなぜかと言うと外的意識のレベルでその人と既にコミュニケートしていたのです。でも、科学的な意味からして外的意識があるのをどうやって知る事ができるかと言うと、次のようです。
ある場所に入ると、嫌な感じがしたり、居心地がよいと感じたりするのは、人間の五感の何を使って感じるのでしょうか。視覚や、触覚等の五感以外の何かです。最終的にその場所に留まるか離れるかを決めるのは、内的な意識の力によるものです。エゴが、その場所の波動等を教えてくれるのです。
子供は、実在しない想像上の友達と遊んでいる事がよくあります。これは、国を問わずあります。生まれたばかりの子供は、心は水晶のように澄んでいます。そういう子供は外的な意識があるという事を知覚できます。
この外的意識は3次元に留まっていないので、他の次元からのものを呼び込む事ができます。だから、よその次元から呼び込んだり、知覚できたりしたものを「お友達」と呼ぶ事があります。
外的意識は、初め友達と感じられるかも知ませんが、最後は敵になります。これについては、後で説明します。
超意識
意識にはもう一つの部分があります。
表面意識と潜在意識があります。外的意志がある事も説明しました。ブライアン・ワイス博士の本にもあるように、超意識と言うものがあります。
何人かの人に過去世回帰をやって、それぞれの人生を終えて体を離れた後、クライアントに対してあなたの超意識の部分とつながって下さいという暗示を与えると、その人生の目的は何だったかとか、その人生で出会った人と、今の人生で出会っている人が同じかどうかという事が聞けます。
自分の本質が超意識の部分にあります。そこに神というものの本質もあります。自分の中に神聖な美しい部分があるという事を理解していない人が非常に多いのは残念です。そういう人にとっては、神は外側のどこかにあると感じています。
本当は、自分の中に神聖な火花のようなひらめきがあり、ハイアーセルフとかアルトマンとか神聖な意識とか呼ばれています。神聖なスパークと呼ぶ人もいます。
キリスト教徒の多くは、イエスの名字はキリストだと思っています。キリストはユダヤ教徒であり、また、これらの話を語ってくれた人もユダヤ教徒ですが、彼の本当の名前は、ヨシュワ・ベン・ヨセフといって、ヨセフの息子であるイエスです。ベンは息子を意味しています。
キリストと言うのは、ギリシャ語のクリストスから来ていて、これはまさに神聖なひらめきという意味です。精神世界的な考え方から言うと、キリストはあるメッセージを持っています。キリストが神の息子ではなく、私達皆が神の子供であるという事を知らせるための存在であったということです。私達の超意識、或いは神聖なるひらめきは、自分がどういう存在であるかのあらゆる情報を備えています。また、この部分は自分を無条件に愛してくれ、守ってくれ、欲しいものは全て与えてくれると言うことだそうです。
我々には、表面意識、潜在意識、外的意識、超意識が有ります。このように考えると、自分は如何に深く大きな存在であるかという事が分かります。
心の中には情報の倉庫のようなものがあります。情報を分析し、新しい情報を受け入れる部分があり、エゴの部分がより高い超意識の部分との接点であり、心の中には神聖なひらめきさえもあります。
一人一人の中にそれだけのものがあります。でも、私達皆がそんなに素晴らしい存在だとすれば、なぜ現実はこんなにひどいのでしょうか。
エゴによる悲劇の例
では、子供時代の話しをしましょう。
0から13才までの間に人格が形成されます。
親には悪気はありませんが、一般的に子供に悪影響を与えています。
アメリカでの調査によると、アメリカの平均的な家庭に育った子供は子供時代に「ノー」、「ダメ」、「できない」等の否定的な言葉を14万回聞いていると言われています。肯定的な言葉や誉め言葉は、否定的な言葉の10%程度しか聞いていないそうです。
これにより人は自分はできないという恐怖により多くさらされています。
子供が小さいときには、親はどのようにして子供をコントロールするでしょうか。やはり、恐れを使います。罰を与えるという脅しを使います。
例えば、「オバケが出るよ。」と言ったり、「こんな悪い子は神様は要らないよ。」と言ったり、「悪魔が来るよ。」と言ったり、「体罰を与える。」と言ったりして、恐れの気持ちによりコントロールします。
子供は、「何をやってもうまく行かない。」と言う間違った観念を持ってしまいます。自分の行動に責任を持つという事にあまり魅力を感じなくなります。「あの子がやった。自分は悪くない。」という言い方をよくします。
ある人の調査によると、二人の子供がやった事について、別々に意見を聞くと、双方とも「あの子が悪い」と、言い張っていることが多いのだそうです。子供が人のせいにするのは病的な事ではありませんが、多かれ少なかれ人は自分の行動に責任を取りたくないような気持ちで育ってきています。
どういう仕組みかと言うと。
例えば、啓子さんがまだ3才だったとします。
啓子さんは床に座って人形と楽しく遊んでいるとします。自分のエゴの部分と常にコミュニケートしています。エゴは啓子さんに向かってイメージとか、考え、印象とか、感情とかの色々な形で何かを伝えようとしています。或いは心の中でエゴと話しをしているかも知れません。ほとんど意識していないのと同じ微妙なレベルでそれを行っています。
啓子さんが、そうやって、人形と遊んでいる時、エゴは、「ちょっと教えてあげるね」と言います。そして、その情報に従って啓子さんは何かの決定をしなければならないのです。
そうです、人生とはどういうものかと言うことは、既に3才にして分かってきています。つまり、「もし、自分が何かを決めたときに、回りの人が気に入らないと、自分は嫌な目に会う。」という事が分かっています。
私達全ての人生に於いて、そういう瞬間があります。エゴが情報をもらい、どちらかに決めるとき、自分で決めない方がいいなと思う瞬間があります。
「最初から、お友達のあの子に決めさせちゃったほうがいいや」と思うのです。その瞬間に啓子さんはその現実について、我々のほとんどが住んでいる幻想の中に、3才にして足を踏み込んでしまったと言う事になります。
「人生で自分に起こる全ての事は全て自分に責任が有るんだ。」という現実から、出て、自分の人生は自分でコントロールするのではなく、誰かに任せてしまえばよいという幻想の中に入ってしまった事になります。それは、ある意味でエゴにコントロールを渡してしまった事になります。
エゴはコントロールをもらってどうするでしょうか。
エゴは吸収と反射しかしないので、そこには論理も理性も意志の力もないのです。何のプログラミングもないのです。
この時点でエゴができる事は、更にまた何かを吸収して反射するそれを続けるだけです。啓子さんは、生後8カ月であろうが、3才であろうが、5才であろうが、情報は外から中にやってきて、コントロールをエゴに明け渡してしまっています。
しかし、エゴには選択肢が二つしかありません。外から情報が来てしまっているので、エゴにはもはや中のものを反射するしかなくなります。
エゴは、結局得る事はできないので、もう一度啓子さんに「決定しろ」という情報をあげる事しかできないのです。エゴには決定できないので、啓子さんに反射をするだけです。
この瞬間エゴはもう一度、吸収と反射を繰り返すだけです。外側から情報を吸収して、内面の意識に反射するのと同じように、内面の意識から情報を吸収して外側に反射するという事もします。
すると、何が起こるかと言うと、それまで啓子さんが持っていた非常にすっきりとした世界への知覚の代わりに、主観的な意識にあったものが外に反映されて、突然あたりが濁ってくるのです。
意識の中でいちばん強いものは、恐れです。また、人はポジティブな考えより、ネガティブな考えを多く持ちます。ネガティブな思考の土台は恐れです。この時に、啓子さんの世界に対する認識にどんな事が起きたかと言うと、恐れでエゴが濁ってしまった為に、外からやってきた情報は必ず恐れの中を通らねばならなくなったと言うことです。「私にはできない」とか、「ノー」だとか、「私は悪い女の子だ」とか、「恐れ」とかに取り巻かれてしまいます。
エゴは相変わらず新しい情報をどんどん受け入れようとするのですが、外的意識を通って内面の意識に到達しますので、ここを通らなければならないとすると、「情報は歪曲される」のです。外からやってくる情報が純粋なクリアなものではなくて、汚染されたものになってしまいます。
例えば、フリスビーを投げたときに、ぬかった泥の上をリバウンドしたとすると、フリスビー自体は同じですが、周りに泥がついて、汚れたフリスビーになってしまいます。啓子さんが受け取る情報は、常にぬかった泥の中を通らねばならないので、心の中に入ってきたときには既に色々なものがくっついてしまっています。
人から何か言われ、色々な言葉が自分の頭の中に入ってくるまでに、その言葉が、他のものをくっつけてしまった状態で入ってくる事があります。なぜそうなるかはこれで分かったと思います。やってきた情報が、今エゴの中にあるものの中を通らねばならないので、その間に歪んでしまうのです。ですから、それに対する反応も純粋でなくて歪んでしまうのです。その情報に基づいた決定も純粋な決定ではなく歪んでしまうのです。エゴが自分の敵になるというのはこういう事です。
エゴが自分にとっての唯一の敵なのです。人が自分に何を言っているのかが問題ではなくて、エゴがそれをどう解釈するかが問題なのです。
ある友人から、自分の着ている服について、「その服は素敵なんだけど、今のあなたにはそぐわないかも知れない。」と言われた時、友人は自分の事を知っているので、「もしかしたらそうかも知れない、この組み合わせは、私には合わないかも知れない。」と思います。
または、機嫌が悪くなり、ムッとするかも知れません。
もし、自分の母親が権威的な人で、子供の時から「髪をこうしなさい」とか「もっと、綺麗に洋服を着なさい」とか、身なりについてうるさかったとします。
そうすると、友人が、服装について何か言ったとたんにどういう気持ちが起こるかと言うと、友人は「自分の事が嫌いなんだ、すごく趣味が悪いと思っているんだ。」と思い、機嫌を悪くします。そういう事は誰にでも起きています。
これのいちばん悪い面と言うのは、こういうエゴがあると言う事を、普通は意識していないことです。つまり、エゴがやっている事を自分そのものだと思ってしまいるのです。
エゴが言う事を全て信じてしまっているのです。
外側からやってくる情報は、自分の中の「戦うか逃げるか症候群」を直接作動させて、ストレスをためています。それによって、病気になったり早死にしたりの原因になる事もあります。自分とエゴの区別をしないので、エゴが飛べと言うと、飛んでしまう。エゴがやれと言う事は無条件にやってしまいます。そうすると、生活上のあらゆる決定も、歪んだ情報に基づいて行われる事になります。
どこからか情報が入ってきた時、どこを向いても「悪い子だ」とか、「神が罰を与えた」とか「自分には価値がない」というふうにばかり見えてしまいます。人の下す決定や行動は、エゴによりかなり制限を受けています。
なぜこのようにうまく行かなくなっているのでしょうか。
潜在意識の部分は0才から13才の間にできます。0才から13才までの自分と、今の自分が同じ人格だという人は殆どいなません。教育も受け、仕事を持ち、人間関係を持ち、様々な事を達成し、深い友情も育て、自分の精神世界も探求し、成熟し、子供をもうけ色々な事を学んできました。0才から13才までと同じままで育ってきた人はいません。
しかし、エゴが自分にいう事は全て0才から13才までの間に言われた事なのです。それを、延々と自分に言い続けています。今自分がどういう人間であるかに係わりなく、その時に言われた事を言い続けています。0才から13才までの間に聞いた声とか印象を、大人になっても聞かされ続け、我々はそれに反応し続けています。これがどんなに悲しい状況かと言う事が分かるでしょう。
エゴには、論理もないし、学ぶ事もできないのです。エゴは、エネルギーを帯びた鏡のようなものです。或いは、同じ事を延々と言い続ける壊れたレコードの様なものです。
啓子さんの誕生日のプレゼントのために鳥のオウムを買ったとします。意地悪いユーモアを考えつき、意地悪い事を言うように教え込んだとします。「啓子、あなたには何もできないよ。」「啓子、あなたは頭が悪い。」とかいうことを。
それをもらった啓子さんが自分の部屋で飼っていて、オウムが毎晩悪い事を言い続けたとするとき啓子さんはどうするでしょうか。
0才から13才までの間に、親が子供に言う半分以上の事は、子供を傷つける内容です。それは、人間が延々と受け継いできた無知によるものなのです。自分の子供に何かしゃべっているとき、今自分が言っている内容は、自分の母親が自分に言っていたのと同じだと気付く事があります。世代から世代へ同じ無知から来る過ちを繰り返すのは簡単なのです。それが嫌な事とか嫌な言動とかを作っていきます。
仕事から疲れて帰ってきたときに子供がうるさく寄ってきたとします。そういう時に、子供に向かって「黙って! ほっといて!」と怒鳴った経験は誰にでもあると思います。それは、悪意で言ったのではなく、自分が疲れているので本当に一人にしておいて欲しいから言ったのですが、子供はそういう意味には受け取れない事が多いのです。
ある本に「自分の人生に起こるごちゃごちゃを親のせいにするのは簡単だ」と書いてありました。でも、本当は自分が自分に向かって毎瞬どんな扱いをしているかを考えると、親がどうこうしたのと比べものにならない程、自分が自分にひどい仕打ちをしています。エゴが自分にひどい仕打ちをしている訳です。エゴが、「おまえは屑だ。」というと「そうかも知れない。」と思ってしまいます。エゴは、きつい事を自分に言い続けています。
エゴは諸刃の剣のようなものです。エゴは「何かをしろ。」と我々に言います。その後に、「そんな事をしてしまって。」と我々に思わせるのです。エゴを相手にすると我々は勝てません。エゴは論理がないし、壊れたレコードのように繰り返すだけですから、エゴは変化しないのです。
自分が何度も何度も同じ様な行動をしているのに気がついた事があると思います。景色は違う、年齢も違う、着てた服も違うけれど、同じパターンを繰り返したという事を気がついた事があるでしょう。同じメロドラマを繰り返している人もいます。それは、エゴがやれという事をそのままやっているからです。エゴが変わらないから、やる事も変わらないのです。
アンソニー・ロビンスによると、「無知とは、同じ事を全く同じ行動で繰り返して、今度は違う結果が出るだろうと期待する事である。」と言っています。
エゴはあなたを何度でも同じ道を歩かせようとします。エゴそのものが悪いものではありません。エゴはやってくれと言われたものをやっているのに過ぎないのです。エゴが他の次元と自分をつないでくれるので、人間にはエゴは必要です。しかし、エゴと自分とは区別する必要があります。
自分がエゴに無意識的に従うのではなく、エゴが自分の役に立つように利用するべきです。エゴが自分に従うようにするのです。
どんなものでも自分が力を与えてしまったものは、自分を左右してしまいます。何か嫌な事をお酒で紛らわせていたとします。「お酒を飲まないとやって行けないよ」と思うと、お酒が自分より強くて大きい存在だと認めて、お酒に力を与えてしまった事になります。
自分が自分の力を何かに与えてしまった瞬間から、それは自分より高いもの、自分を暴君のように支配するものになってしまいます。
独身の男性であるあなたがクラブに行ったとしましょう。
そこである女性と出会いました。すごく輝いていた訳ではないのですが惹かれていきました。話しをしているうちに、一緒に帰ろうという事になります。次の朝、恋に落ちた訳ではないのですが、少しの間付き合ってみようかなと思いました。
その日仕事に行って家に帰ってみると、その女性から留守番電話に7回もメッセージが入っていたとします。次の日会社に行くと、会社に何度も電話をかけてきたとします。すると、周りの人は「その彼女はどういう人?」と聞きます。
すると、「こんなに電話をかけられると迷惑だな。」と思い、彼女に「こんなに電話をかけられると困る。」と言います。すると、彼女から「あなた無しでは生きて行けない。」と言われます。
もしもそういう状況になったら、あなたはその女性に対してどういう態度をとりますか。そうなると、彼女にあまり優しく対応しないですよね。それは、彼女があなたに力を与えて、「あなた無しでは生きて行けない。」と言うように、あなたをすごい存在にしてしまったからです。
エゴそのものは悪いものではないのですが、暴君と化してしまう事に問題があります。
好きな人がいたとします。その人のエゴというのは、「あなたは窮屈なところにいるのだからやたらに動くのではない。」とあなたに言います。面白おかしく話しをしていますが、実際はエゴは悲劇を招くのです。
実例をもう一つ話しましょう。
小さい男の子が夜中に目をさますと両親が喧嘩をしています。すごい喧嘩なので怖くなりました。しかたないので、「ママ、パパ、喧嘩しないでよ。」と言いました。しかし、彼らは本当に頭にきているので子供に向かって怒鳴ったりし始めます。
しかし、その子は、本当は両親への愛情を示したかっただけでした。しかし、怒鳴られてますます怖くなってしまいました。そして、自分は悪い子なんだろうと思ってしまいます。もしかしたら喧嘩も僕が原因かもしれないと思ってしまいます。そして、全部は自分のせいなのだという解釈をしてしまいます。すると、その導きがエゴに吸収されて、何もかも悪いのは自分だという認識がエゴの中に取り巻かれて漂ってしまいます。
15才になっても、20才になっても、30才になっても、50才になっても、全部自分のせいだという声に取り巻かれて生きる事になります。エゴがなんでもおまえのせいだと突っつくので、死にたくなったりしてしまいます。或いは不幸な気持ちで人生を送るとか、心の中のエゴの声が心の中の小さい部分、狂気という名の小さい部分に彼を追いやってしまうかもしれません。
そんな風にして悲劇的な事になり得るのです。エゴに自分の力を明け渡してしまう事によって、ずっと昔に起きた体験のプログラミングに自分を任せてしまうのです。それは、今の現実に於いては正しくない場合が多いのです。
子供は本質的に悪い子というのはいません。ただ、いたずらなだけです。両親というのは疲れているかもしれないし、落ち込んでいるかもしれないし、何かに不安を持っているかもしれません。それでも、思わず口を滑らせて、言ってしまった言葉が、子供の人生全体に影響を及ぼしてしまう事があるのです。
私達が世界をどのように見るかというと、知覚、感覚、情報全てがこのエゴの層を通ってきています。「世界はひどいところである。」と思ったり、「自分を受け入れてくれないところである。」と思ったり、「自分を愛してくれるところではない。」と思ったりします。
赤ちゃんの時に自分の親友であったエゴが、そのうち自分の敵になってしまうのです。これは残念な事です。
神聖なスパーク
それでは、超意識の所で話した、神聖なスパークの話しに移りましょう。
前にも話した通り、この部分の本質は無条件の愛です。そして、自分を守ってくれて、望むものを全て与えてくれます。しかし、超意識の部分が自分のために働いてくれないのではないかという気持ちを抱いた事がある人もいると思います。
前にも述べましたが、エゴが自分を超意識とつなげています。
超意識というのは、良い悪いの区別が無い全てが一つであるという意識の一部です。白黒とか善悪とかの対局の無い意識の一部です。しかし、私達が生きているのは、上と下とか、南や北という極がある世界です。
ですから、我々が見る外的な世界には全て極が有ります。2元性が有ります。
例えば、暗い明るい、良い悪い、全て二つの極が有ります。でも、本当を言えば、良いも悪いも、暗いも明るいも有りません。
無条件の愛というのは対象を選びません。あなたの事は、あなたが存在するだけで十分愛しています。地球上でなかなか出会う事はありませんが、神聖なスパークというのは空や大地のようなものです。
レンズは良いも悪いも区別はしないので、私が、Aさんの写真を撮ろうと思っても、間違ってBさんの方へレンズを向けてしまってシャッターを押すと、Bさんの写真が撮れてしまいます。心を向けたときに移っているものが自分の中に反映されます。
意識的な心と神聖なハイアーセルフを結ぶものは何かと言うと、それはエゴなのです。
ですから、外側にあるレンズにどんなメッセージが映し出されるかと言うと、「私にはできない。」とか、「私はたいした人間ではない。」、「私は価値がない人間だ」とか、「全ては私が悪いのだ。」とかです。
神聖なスパークは、思ったものは、何でも与えてくれるので、結局、「私には価値がない。」と勘違いしてしまいます。
そういう想いを映し出すと、どんなものをくれるかと言うと、言った通りのものが戻ってきます。
キリスト教の聖書の中にも「求めよ、さらば、与えられん」と言う言葉がありますが、「私は価値の無い人間だ。」と言ったなら、エゴは「それは望むべきものではない、他のものを望んだ方が良いよ。」とは言ってくれずに、それを無条件に与えてくれます。
自分とエゴを区別しなくて、エゴが悪い人間だとか役に立たない人間だとか言っても、それをそのレンズに映してしまい、無条件に望む事をやってくれますから、悪い人間だったりする現実が外に現れてきます。意識的にせよ、無意識的にせよ、望んだ通りの現実を見せてくれるのです。
ある女性の人生の、悲劇的な一つの例について説明しましょう。
母が、彼女にに「あなたは悪い子だから、そのうち、私は病気になっちゃうわ。」言いました。とても神経質な母親で、時々、「あなたのせいで、私は心臓発作で死んでしまうわ。」と、発作的に言ったりしました。
そして、彼女が12才の時に本当に心臓発作を起こしました。父が病院から戻ってきたときに、彼女は、「私が悪い子だから、お母さんは病気になってしまったの。」と、父に聞きました。
母は生死の境目をさまよっていましたから、父は、そのことで頭がいっぱいで、「いや、そんな事は関係ないよ。脳の中のどこかが調子が悪かっただけだよ。」と、適当に答えました。
12才から13才までの子供は、帰納的な理論の頭の仕組みというのができていないので、お母さんがずっと、「あなたが悪い子だからお母さんが病気になる。」と言ってきたので、「やっぱり私は悪い子だからお母さんが病気になったのだと思ってしまった。」そして、「私は、悪い子」が現実になってしまいました。
結局、彼女は、12才から16才までの間に4回も自殺未遂をしてしまいました。
セラピー
ソローと言う人の言葉によると、「人間は皆、静かな絶望の中に生きている。」のだそうです。
多くの人間が自分の望む人生を生きているのではなく、苦い想いとか痛みとかを持って自分を愛せない状態で生活しているのです。
それはなぜかと言うと、人間一人一人のエゴが取り巻いているので、エゴを越えて内面を見ようと思いつかないが故の静かな絶望なのです。
催眠により、心の中の過去の暗い意味付けを、そして、心理的なある部分を、変えていく事ができます。
その人の磁場のようなものを変化させる事ができます。
セラピストがクライアントの中のネガティブなものをポジティブに変えて行くにつれて、エゴは内面のものを吸収して、外面に反射していくと言う事を繰り返して行くにつれ、エゴはだんだん明るくなっていきます。
例えば、空が曇っていたのが、突然雲が開いて、光りが見えたら私達の心は明るくなります。
セラピストがやる事は、「光」を見せてあげる事です。
エゴがずっと言い続けてきた幻想を開けて、その向こうを見せてあげる事です。
「あなたは存在するだけで愛されている。」と言う超意識の部分を見せてあげる事です。
良いセラピストと言うのは、自分を何の選り好みもしない何でも映し出す鏡に変えられる人です。その相手の本質を映し出してあげる鏡になれる人です。真実が、本人を癒してあげられます。
私達は完全な人間ではありませんが、悪い人間でもありません。子どもの頃には様々な事がありました。外面に映し出された世界に私達が見るものは、子どもの頃の悪い子だった私達の反映なのです。ですから私達は、内側に戻って行って本当の自分を見つけだす必要があるのです。それをセラピストとして一緒にやってあげるのです。
これで、エゴと言うのが人間にとってどういう役割を果たしているのか、どんな事をしているのかということが理解できたと思います。
大分、重たい話になってしまいましたが、これらは、非常に重要な話です。
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